5月上旬、東華禅寺の方丈、万行法師が率いる一行は、中華民族の祖先の故郷である山西省運城の黄河金三角地帯から出発し、中華民族のルーツを探る旅をした。
この文化の旅の最後に、万行法師一行は解州の関帝廟を訪れ、忠義の聖殿で時代の響きに「耳を傾け」た。また運城塩湖では、千年の歴史を持つ塩湖と生態系の覚醒に関する禅の対話が行われ、堆雲洞では道教と赤い信仰がもたらす新時代の啓示を悟った。万行法師一行らが自らのルーツをたずね運城へと旅した足跡を辿りながら、「仏教の中国化」という時代の命題について引き続き考察する。
「忠をもって身を修め、義をもって世を救う」 関帝廟が担う「忠義仁勇」の精神を伝承する

写真説明:万行法師一行は解州の関帝廟を訪れした。(李英菁撮影)
山西省運城市解州鎮に位置する関帝廟に足を踏み入れると、中軸線上にある端門、午門、崇寧殿など15の殿堂が威風堂々とした佇まいを見せている。清代の瑠璃の脊獣、明代の鉄で鋳造された胡人牽獅(こじんけんし)などの文物は、古代の鋳造技術とシルクロードの文明が融合したことを物語っている。廟内にある「気粛千秋」「万世人極」といった扁額は、歴代の皇帝や将軍が関羽の「忠義仁勇」を称賛してきたことを表している。万行法師は視察した際、「関公の忠義は抽象的な記号ではなく、血脈に溶け込んだ文明の遺伝子である」と述べた。その精神はすでに地域を超え、世界中の華人の文化的な絆となっている。
解州関帝廟は隋代に創建され、現存する建築群は清の康熙年間に再建されたものが主であり、総敷地面積は22万平方メートルに及ぶという。これは世界最古かつ最大規模、そして最も高い構造を誇る関帝祭祀建築群である。「威震華夏」の牌坊の下で、万行法師は関公文化のより深い文明的な啓示を称賛した。「関公崇拝が1800年を超えて衰えないその理由は、その『大義が天に参ず』という精神の超越性にある」。隋や唐の時代に始まった公的な祭祀から、現代の80カ国以上で建設されている関帝廟まで、この聖殿は常に、中華文明が提唱する「和して同ぜず」の縮図となっている。
「信仰の前にまず愛国』は、東華禅寺の核心的な家風である」。万行法師は、愛国文化を最も早くから提唱した寺院の一つとして、東華禅寺が「忠をもって身を修め、義をもって世を救う」ことを提唱していることに触れた。これは関帝廟の「国を守り民を助ける」という宗旨と合致しており、今後は「忠義」を禅の文化にも浸透していくだろうという。
「葦の湿地が囲み、水鳥や渡り鳥が群れる」 塩湖が内包する中華文明の生態的な智慧を理解する

写真説明:万行法師一行が運城の塩湖に到着した。(李英菁撮影)
「この水域には、中国文明の最も深遠な生態の知恵が宿っている。」万行法師は目の前の運城塩湖を感慨深く見つめた。
運城塩湖は晋南盆地に横たわり、総面積は132平方キロメートルで、世界の三大硫酸ナトリウム型内陸塩湖の一つである。その形成は6500万年前のヒマラヤ造山運動にまで遡るという。山の鉱物質が数億年を経て沈殿・蒸発し、「中国の死海」と呼ばれる独特の景観を創り出した。湖水の塩分濃度は27%に達し、人は水面に浮かぶことができる。高温と強い光の下では、塩藻とアルテミアが色彩豊かな自然の絵巻を生み出す。
1980年代、塩湖で化学工業生産が行われたことで生態系は傷つけられた。新時代に入ってからは、地元政府が「壮士断腕(訳注:物事は躊躇したりぐずぐずしたりせず即座に判断すべき)」の決意で工業を停止し、湖の生態系を回復させた。今や塩湖は「葦の湿地が囲み、水鳥や渡り鳥が群れる」という生命力を再び取り戻し、冬には芒硝(ミラビル石)が雪のように結晶し、夏には塩藻が虹色の絹のようである。山西省における生態文化観光の基準となっている。
万行法師は、塩湖は自然からの不思議な恵みであると同時に、労働する人々が保護し開発した知恵でもあると指摘した。4600年にわたる採塩の歴史は、人間と自然が調和して共存してきた実践の歴史である。古代の人々が塩藻の周期に従って採取の時期を定め、葦を使って砂を固定し岸を守ったことは、まさに新時代の「両山理論」の古い注釈である。彼は、塩湖の黒泥の健康増進価値は、東華禅寺が提唱する「仮を借りて真を修め」、「事象を借りて心を鍛える」という理念と通じていると述べた。「黒泥を体に塗ることは表面的なことであり、自然の力を借りて心を修め、修行することが根本である」。

写真説明:万行法師一行が運城の塩湖に到着した。(東華禅寺提供)
「家の上に家を建て、洞窟の中に洞窟を隠す」 堆雲洞建築の奇観の中に禅の哲理を探し求める
運城市夏県稷王山の麓にある黄土の谷間に足を踏み入れると、ここに隠されていた堆雲洞が目の前に現れる。12の庭が山の地形に沿って配置され、道教の「道法自然」という理念が自然に溶け込んでいる。「拡大された盆栽」や「凝縮された仙境」として称賛されている。

写真説明:万行法師一行が堆雲洞に足を踏み入れた。(李英菁撮影)
伝えられるところによると、堆雲洞は元代に創建され、「家の上に家を建て、洞窟の中に洞窟を隠す」という重層的な建築の奇観で知られている。万行法師は、堆雲洞の重層的な建築は、禅宗の「一歩一歩が蓮の花」という修行の段階に密かに一致していると指摘した。庶民教育から革命の火種まで、その一歩一歩が「信仰を生活に落とし込む」ことの証しなのである。
この道教の聖地は、山西南部革命の発祥地としても知られている。1922年、革命の先駆者である嘉康傑は、この地に人民学校(現在の康傑中学校の前身)を設立し、教育を通して新しい思想を広める場とした。1928年には、中国共産党の河東特別委員会が10年間秘密裏に活動し、山西南部の人々を闘争に導いて、三拐窯(三つ又の窯)、暗室、井戸などの革命の遺跡を残した。まだらな模様の土窯と深い洞窟は、「小さな火」がいかにして野原を焼き尽くしたが証明されている。万行法師は洞内の革命遺跡を拝観した際、「嘉康傑先生が教育をもって国を救おうとしたことは、仏教界が提唱する『人間仏教』の精神と、道は違えども同じ所にたどり着いている」と述べた。

写真説明:堆雲洞の重層的な建築をつなぐ険しい階段。(李英菁撮影)
東華禅寺のルーツを探る旅に参加した一行は3日間、運城の主要な名所旧跡を訪れ、華夏文明の重厚な歴史を感じ、民族精神の現代への継承を体感した。万行法師は、文化の充実は仏教の中国化を実現する上で重要な道であると強調した。私たちは、優れた中国の伝統文化を仏教に浸透させ、社会主義核心価値観を積極的に実践し、仏教の中国化を深く推進し、中華民族の現代文明を共に築き上げなければならない。万行法師は今回のルーツ探しの旅を通じ、日常の管理と布教活動の中で、仏教中国化のモデルと実践体系を絶えず改善し、仏教の中国化という時代の命題に対して、東華禅寺ならではの創造的な答えを提示したいと願っている。
翻訳/古橋奈津子